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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を29歳会社員が読んでみた

半身こそ理想だ 働き方

ちくしょう、労働のせいで本が読めない!

これは、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の著者が、新卒でIT企業に入社し、社会人1年目で感じたことである。

当時の著者の、そんな心の中の叫びから、この本は始まる。

この読書感想文は、週40時間労働がしんどいと感じている29歳会社員が書いています。

当時のベストセラーから「読書」を紐解く

そもそも多くの人が「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という悩みを抱えるようになったのはいつからなのか?

この本では、そういったことを考えていくために、過去のベストセラーに焦点を置いて「読書」を紐解くという試みが行われています。

ベストセラーとは、時代の空気にベストタイミングで合致した本を出したときにだけ起こる、台風のようなものだと私は考えている

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.43

売れる本とは、「時代の空気にベストタイミングで合致した本」である、と。

つまり、どんな本が売れていたのかというところから当時の社会情勢などを見ていくことで、当時の「読書」に対する価値観や空気感を見ることができる、と。

以下、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の目次ですが、

どんな本が売れていたのかというところから当時の社会情勢などを見ていく

ほとんどの章を「どんな本が売れていたのかというところから当時の社会情勢などを見ていくこと」に費やした本となっています。

時代ごとに売れていた本を見ていく

第1章から第9章まで、各時代でどんな本が売れていたのかというところから、当時の「読書」に対する価値観や空気感を見ていく。

現代に近づいた第9章で「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の要因となる核の部分に迫る。

最終章で働き方や生き方に関する著者の提言が述べられる。

  • 第1章から第9章まで:各時代の「読書」に対する価値観や空気感を見ていく
  • 第9章:核の部分に迫る
  • 最終章:働き方や生き方に関する著者の提言が述べられる

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」はこのような構成になっていました。

「本」というコンテンツの性質

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という壮大なテーマを考えていく上で、本の中で使われていたキーワードがあります。

それが「ノイズ性」という言葉です。

現代社会では、インターネットが当たり前のように使われ、仕事で常に高い生産性が求められる。

この社会では、ネット検索を駆使して必要な情報だけを摂取し、不要な情報は「ノイズ」として切り捨てる。それが生産性を高める上で欠かせない仕事のスタンスとなっている。

そして、そのスタンスのまま、仕事以外の時間も過ごすことになると、自分が必要と感じない情報は全て「ノイズ」として排除されてしまう

  • 普段の生活や仕事とは一見関係のないような情報
  • 自分の人生という文脈に絡んでこないような情報

上記のようなものは「ノイズ」に該当し、目の前から除外される。

YouTubeやNetflixを早送り視聴して情報を効率よく摂取しようとする人もいるようなのですが、情報を効率よく摂取できるコンテンツは「ノイズ性が低い」と言えるでしょう。

また、パズドラ(代表的なスマホゲーム)のように、不要な情報が入ってこないコンテンツも「ノイズ性が低い」と言える。

フォローしているアカウントの情報だけ見られるSNSのタイムラインもかなり「ノイズ性が低い」でしょう。

一方で、「ノイズ」を丁寧に拾い、自分の中で咀嚼することができるコンテンツが「本」です。

「本」を読むことの醍醐味

本というのは、自分の人生の文脈の外にある情報に出会うことができるコンテンツです。

そのことを、この「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という本自体が、体現していました。

たとえば、現代のビジネスマンに大人気のジャンル「自己啓発」について触れられている箇所があります。

「自己啓発」という単語は、なんとなく胡散臭い感じというか、意味が曖昧な感じがしていて、ここ10-20年で出てきたばかり概念なのかなと僕は思っていました。

しかし、この本によると、自己啓発という概念が登場したのは1970年代のようです。

つまりは企業が期待するサラリーマンであってくれるための努力を、社員が勤務時間外に、自発的に行うこと ー それは「自己啓発」という概念に収斂されていった

(中略)

自己啓発というと現代的な概念に思えるが、その萌芽は70年代の日本企業文化にすでにあったのだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.134-135

この部分を読んだとき、

自己啓発って現代的な概念じゃないの?

70年代?半世紀も前からあったのかよ!!

と僕にとっての大きな発見があり、また、自分の中の小さな常識のようなものが1つぶち壊された感覚になりました。

恥ずかしながら僕自身「自己啓発本」にハマっていた時期があり、心のどこかでは「自己啓発」という概念について興味があったかもしれません。

しかし、この本を読み始める時点では、「自己啓発」が自分の興味のあるテーマだとは微塵も思っていなかったです。

そのため、「自己啓発」に関する話は本を読み進めていく中でばったり出会ったものになるので、このテーマは僕にとっては「ノイズ」となります。

しかし、そのノイズに触れたことで「知りたいとさえ思っていなかったこと」が「興味のあること」に変わり、自分の中の大きな発見につながり、新しい知識や感覚を手に入れることになったのです。

これこそ、ノイズ性の高いコンテンツである「本」を読むことの醍醐味であり、それを「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」自体が体現してくれていました。

読書の魅力がここまで言語化されている本、初めて読んだな。「どんどん本読んでいこう!」っていう気持ちになったわ。

そうだね。。

ん、、なんか言いたそうだな。。

これ言っちゃアレなんだけど、、ノイズを取り入れる余裕のない人はこの本のように”ノイズだらけの本”なんて読めないよね。。

うう、、たしかに。僕自身、余裕なかったから読み始めるまでめっちゃ時間かかったわ

「ノイズ性」が本の魅力だと分かる本ですが、ノイズを受け入れられる状態でないとこの本は読めないというジレンマがあります。

ノイズを受け入れる

何かにフルでコミットすること(例えばフルタイムで勤務すること)は、コミットする対象と関係のないことを排除することに繋がる。

そのような生き方、働き方というのは、生涯続けていくことは可能なのでしょうか


しかし自分から離れた存在に触れることを、私たちは本当にやめられるのだろうか?

私たちは、他者の文脈に触れながら、生きざるをえないのではないのか。

つまり、私たちはノイズ性を完全に除去した情報だけで生きるなんて無理なのではないだろうか。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.226-227

著者は、ノイズを排除し、自分一人の文脈の中だけで生きていくのは不可能だと言う。

ではどうすれば良いのだろうか?

大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしないことだ。

仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。

仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。

それこそが、私たちが働きながら本を読む一歩なのではないだろうか。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.232

仕事以外の文脈を思い出すこと。そのノイズを、受け入れること。

これが「働きながら本を読む」ための第一歩だと、著者は主張しています。

長時間労働に疲れているとき、あるいは家庭にどっぷり身体が浸かりきっているとき、新しい「文脈という名のノイズ」を私たちは身体に受け入れられない。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.235

ノイズを受け入れることが大切であるとはいえ、長時間労働に疲れているときはノイズを受け入れることができない。

現代日本で基準とされている「週5日8時間」のフルタイムで働いていると、仕事以外の文脈を思い出したり、仕事関係しないことを受け入れたりする余裕はできないだろう。

では、企業が長時間労働を強制するのをやめれば、私たちは「働きながら本を読める社会」をつくることができるのだろうか?

実は、問題はそう単純ではない

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.244

では、長時間労働をやめれば問題が解決するのか?

そんな単純な話ではない、という。

長時間労働をやめれば問題が解決するのか?

20世紀、私たちは常に、自分の外部にいるものと戦ってきた。たとえば他国との戦争、政府への反抗、上司への反発。私たちが戦う理由は、支配されないため、だった。

しかし21世紀、実は私たちの敵は、自分の内側にいるという。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.245

21世紀を生きる私たちに、自国で戦争が行われたり上司にパワハラされたりするということはほとんど起こらない。敵となるものは自分の外側にあるわけではない。

戦う相手は自分の内側にいる。どういうことか?

新自由主義は決して外部から人間を強制しようとしない。むしろ競争心を煽ることで、あくまで「自分から」戦いに参加させようとする。なぜなら新自由主義は自己責任と自己決定を重視するからだ。だからこそ現代において私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。

戦いを望み続けた自己はどうなるのだろう?

疲れるのだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.245

自己責任と自己決定を重視する新自由主義(ネオリベラリズム)の時代では、自分の外側から何かを強制させられることはあまりない。20世紀と比べると、自由度は大幅に高まっている。

たしかに自由はある。しかし、その中で私たちは競争心を煽られている。

煽られ、戦い、そして疲れている。


日本のように、会社に強制されて長時間労働をしてしまう社会はもちろん問題だ。しかし諸外国の例が示しているとおり、新自由主義社会では会社に強制されなくとも、個人が長時間労働を望んでしまうような社会構造が生まれている。そもそも新自由主義社会は人々が「頑張りすぎてしまう」構造を生みやすく、それは会社が強制するかどうかの問題ではない。個人が「頑張りすぎたくなってしまう」ことが、今の社会の問題点なのである。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.246(蛍光線は投稿主によるもの)

「頑張りすぎてしまう」

「頑張りすぎたくなってしまう」

「働きながら本が読めなくなるくらい、全身全霊で働きたくなってしまう」

そういうふうに現代社会はできている。そういう構造にある。

問題の本質は「会社に強制されて長時間労働をしてしまう社会」ではない。

個人が「頑張りすぎたくなってしまう」社会、それが問題の本質である。

「全身」を求められる

そう、もう資本主義は、仕方がないのである。

常に、資本主義は、「全身」を求める。

(中略)

全身、コミットメントしてほしい。それが資本主義社会の、果てしない欲望なのだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.255

資本主義は、「全身」を求める。

資本主義というものを「どこまで生産性を高められるかを競うゲーム」のようなものだとすると、そのゲームの中で勝つには1つの対象に対して「持ちうるリソースを全て使い切ること」が求められる。

会社という組織は従業員に対して100%のコミットメントを求める。その方がゲームに勝つ確率が上がるからだ。フルコミットは勝つために必要とされていることなのである。

(「子育て」の場合、直接的に何か金銭的な価値を生むわけではないかもしれないが、夫(または妻)が世帯収入の確保にフルコミットすることを支えるという意味では間接的に生産性を高めていると言えるかもしれない。また、他の身内や友人に助けを求めたりベビーシッターに依頼したりといった”コスト”を削減するという意味でも生産性を高めていると言えるかも。)

(「部活」の場合も、直接的に何か金銭的な価値を生むわけではないかもしれないが、勝ち負けがハッキリしたり成績が出たりするような部活動の場合は、それ自体が「どこまで生産性を高められるかを競うゲーム」になる。)

全身全霊のコミットメントは、何も考えなくていいから、楽だ。達成感も得やすいし、「頑張った」という疲労すら称賛されやすい。頑張りすぎるのは少しかっこいいし、複雑なことを考えなくていいという点で楽だ。

(中略)

しかし私はやっぱり、あえて言いたい。全身、自分の文脈をひとつに集約させた何かにコミットメントするのは、楽なのだ。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.256

そのゲームが行われる社会を生きている私たちにとって、一つのものにフルコミットすることは楽なのだ、と著者は言い切っている。

生産性が求められる資本主義社会で、個人に求められるのはフルコミットであり、その社会に身を任せると自然と「全身全霊」になってしまう。それはある意味で「楽をしている」と。

反論がたくさん出てきそうな主張だけど、反論に配慮しながらも言い切っているのがスゴい。

半身こそ理想だ

だが本も読めない働き方 つまり全身のコミットメントは、楽だが、あやうい。

(中略)

全身のコミットメントは、現代においては、他者によるケアを必要としたり、社会全体で見ると不利益になることが多いのだ。

しかし一方で、ひとつの文脈に全身でコミットメントすることを称揚するのは、そろそろやめてもいいのではないだろうか。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.257

全身のコミットメントは危うい。この記事を書いている僕自身、フルタイムで働いている自分の今の働き方に凄く危うさを感じている

自分で選んだ好きな職種で働くことができているし、職場環境も良く、人間関係も問題ない。

それでもこの働き方が続けられると思えない。仕事で気力を使い過ぎている。仕事以外の時間で虚無になってしまっている時間が長過ぎる。

つまり私はこう言いたい。

サラリーマンが徹夜して無理をして資料を仕上げたことを、称揚すること。

お母さんが日々自分を犠牲にして子育てしていることを、称揚すること。

高校球児が恋愛せずに日焼け止めも塗らずに野球したことを、称揚すること。

アイドルが恋人もつくらず常にファンのことだけを考えて仕事したことを、称揚すること。

クリエイターがストイックに生活全部を投げうって作品をつくることを、称揚すること。

ーそういった、日本に溢れている、「全身全霊」を信仰する社会を、やめるべきではないだろうか?

半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。

なぜ働いていると本が読めなくなるのか p.258(蛍光線は投稿主によるもの)

いわゆる「仕事」だけの話ではない。「子育て」「部活」「創作活動」など、1つのことに全身全霊をかけることを「良いこと」だとする信仰する社会をやめようではないか。

半身こそ理想だ、とみんなで言っていきませんか。

半身こそ理想だ

半身こそ理想だ

半身こそ理想だ

半身で生きていきたい。

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで、次のことを考えるようになりました。

  • フル稼働をやめる
  • 複数の職種で仕事をする

フル稼働をやめる

ぼくは現在、正社員としてコーダーの仕事をしていて、この本を読むまでは、「働き方を変えるのであればフリーランスになるしかない」と勝手に思い込んでいました。

そして、フリーランスのコーダーになるのであれば、コーダーの仕事だけでメシを食っていけるようにしないといけないと、これまた思い込んでいました。

おそらく1つの対象に全身全霊をかけないといけないという前提が自分の中であったのだと思います。

しかし、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を読んで、働き方を変える方法は他にもたくさんあると気付かされました。

  • 6時間勤務のアルバイトとしてコーダーの仕事ができるところを探す
  • フリーランスとして週20時間働きつつ、他のアルバイトを始めてみる

色々ありそうです。

とはいえ、転職アプリやクラウドソーシングサービスで色々調べても、今の日本で自由に働き方を選んでいけるのは十分に高いスキルや経験を持った人に限られているなぁ、と感じました。

やはり今の日本はフルコミットが前提となっている。。

そして、その中で、「自由に働き方を選んでいける人」になるには、自由に働けるイスを取り合ったり、そのイスを新しく作ったりする必要がある。ここにも競争がある。

「本質的な問題は長時間労働にあるのではなく競争させられることにある」といったことが本でも書かれていましたが、結局は競争から逃げられないのが社会であり、そういうものだと受け入れなければならないなぁと考えるに至りました。

複数の職種で仕事をする

また、「複数の職種で仕事をする」についてですが、昔やっていたウーバーイーツ配達仕事を土日だけ稼働することによって実現しました。

配達仕事という肉体労働を少し取り入れることで、デスクワークにフルコミットしていた自分から脱却することに成功。

平日にフルコミットしている仕事とは別のことで仕事をして報酬をもらうというのは、精神衛生上かなり良いっぽいので、身体的な疲れが重ならないようにしながら配達仕事も少しずつやっていこうと思います。

そんな感じで、今後は自分なりの「半身で生きる」をやっていきたいと思います。

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